こういうときも自我が、、

昨日のオードリーのオールナイトニッポンをイヤホンで聞きながらハンバーグを作っていた。クックパッドを見ながら作っていたものだから、スマホはすぐそばにあった。

 

LINEの通知が来た。

中学時代の友達からだった。「最近なにしてる?」くらいかと思った。

 

でもどうやら文章が長そう。通知のところから既読が付かないように内容を見た。

そしたら、結婚報告と結婚式をやるから来てね、ということだった。

 

「ついに、、。」

私の心の中の第一声はそれだった。

 

私は友達が少ないため、そんなに触れる機会がないだろうと思っていたそれが来てしまった。その子とは仲が悪くないものの、中学卒業後もこれといって会ったりしたこともそんなに無いので招待するかどうかは微妙なラインだったと思う。

でも来てしまった、、。

その子が結婚する彼と付き合っていたのは知っていたし、付き合い自体も結構長いと知っていたので、もうそろそろなんだろうなぁとは思っていた。

ただ、その日が来ただけなのに、来ちゃったと思った。

 

その瞬間私はやっぱり私のことを考えた。最低だなぁという呆れた自覚付きで。

 

今自分は無職である、という事実を。その子の事を祝うとかの前に、「自分無職だなぁ~働いている社会人の皆さんに囲まれて『今なにしてんの?』という質問にどうやって答えようか」ということをLINEが来た瞬間にそのことについてどう言い訳しようかを考えている自分って情けないくらい滑稽。

でも今の私はそこなんです。

 

また別で書こうと思っていた「ありがとう」とかもそうなんですけど、私はどうやら人間としてかなり当たり前の感情であって欲しい感情が人工的に整備しないとちゃんと人間できないようで。

 

誰も私のことなんか見てないし(ポジティブな意味で)、

そもそもその子が主役なのは明白なのにね。🐇💗

『白塗りシスターズ』

高校1年生のとき、クラスメイトの女子7人グループのなかに私はいた。

今でも連絡を取り続けているのは1人のみで、それ以外の子はほとんど何をしているのか知らない。

グループには名前があった。「白塗りシスターズ」。

今思えばなんてへんてこな名なのだろう。すごい奇抜なコントをやりそうな女コンビ芸人のような名。

でも当時高校生だった私たちには何故かその名がしっくりきていた。

カースト的には中の上、でも上には入れない、グループごと男子と関わることはできないけど、個人的には話す子もいる、という位のグループだったと認識している。

 

活動期間は実質2年位のもので、高3くらいからはグループで集まることは無くなり、自然と解体したと思う。

 

あのグループの記憶で覚えているのは 、メンバーの誕生日毎に簡単なアルバムと簡単なプレゼントを贈り合い、昼は渡り廊下で購買のパンを買ったりして広げてみんなで食べてたなぁ、とか。

夏休みはみんなで水鉄砲と水風船でびしょびしょになったり。

 

なんだろう。とても今は気軽にやろうぜ!なんて言ってできるものじゃないものばかりだ、、。

青春とはよく耳にするものだけれど、改めてどういう意味なんだろうと思い、辞書で引いてみた。

 

『青春…夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。』

 

なるほどなぁ。まさに私の経験したアレは青春だったんだ。人生の春だったんだ。てか人生の春って何よ。

自分が当事者のときには青春とはなかなか気づけないもので、過ぎ去った日を重ねないと本当の意味で青春なんて分からないんだろうな。夢や希望に満ちていない時を過ごさないと、なかなか自覚できるものではない。

 

 

スカート丈とかを厳しめの先生のときにいかにごまかせるかみたいなこと。

 

専らオールナイトニッポンに救われております。

今日は私が最近ハマり始めたラジオについて。

 

きっかけはSixTONESオールナイトニッポンをやっているということで聴き始めたのですけれども。

でもそのうちに「ラジオってもしかして面白いのでは、、、」ということに気付き、その後に聴いたオードリーのオールナイトニッポンで死ぬほど笑って一気に楽しみが増えた今日この頃です。

 

それまでの私のラジオの存在っていうのは車の中の空間にしかなかったので、せいぜい今流行っている音楽やら交通情報やらを届ける媒体という認識しかなかったんですよ。

 

あとは何か中高生の時にスクールオブロックとか聴いてたら気取れるジャーんみたいな感覚はあったけど、当時の自分にはあまりハマらなくて、聴いていなかった。

 

そしたら、今、めっちゃハマる。

好きな理由は2つあって、

1つ目はオールナイトニッポンなんて、自分の好きな人たちの声がかなり長尺で聴けるからもうその時点で嬉しい楽しい大好きですありがとうございますです。

 

2つ目は親近感。「なーんだ、みんなただの同じ人間じゃん」っていう。これがかなり好き。TVとかでなかなか話す内容にもならないような、くだらな~~いことを話して、大人が笑っているのが好き。特にオードリーのオールナイトニッポンはそれ。

 

普段全然もう関わりが無くなった人々のインスタのストーリーを意味なくみて、意味なくネガティヴになっていたあの時間の全てを無意味と気づかせてくれて、超わたし幸せものや~~んて。孤独上等ですよ。

 

あと思ったのは、落語とかも好きな人の感覚としては似ているんだろうな~って思いました。ちなみにラジオ聴くときは数独やりながらか、犬の散歩中かなので、不意に面白くなると大体不審者やってます。

 

 

 

推すこと

 今日は今日読んだ本

「推し、燃ゆ」

のことを交えながらかいていきたいと思います。

 

最近よく考えていた「推し」という存在。

なぜ「推す」ではなくて「推し」なのか。もう名詞化しているだけ?

 

私はこの本を読んでいて、本を読んでいる気がしなかった。現実味があり過ぎて、主人公の行動の動機とかも情けないくらい理解できるものでした。 

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 「推しが生きがいなんです!!」

この前見ていたTVのインタビューで答えていた女の子の声。

わかる。

 

「推しがいるから頑張れます!!」

めちゃくちゃわかる。

 

でも推しって自分ではない。

生きる事を自分以外の人間に意味づけることはその推しがいない世界は自分もいなくなるのだろうか?

現実はつらすぎるから他人のキラキラしたものを吸収して自分に還元?

 

去年の暮、嵐は活動休止をした。

それはかつて当たり前だと思っていた存在の消失だった。

でも自分は今生きているし、明日も呼吸をする。

 

推しって作りたくて作るものではなくて、気づいたときにはいるものなのかなと思う。

無意識のうちに何かが惹かれる「推し」という存在の中に正体に自分が求めていたり、憧れたりする何かがあるのかもしれない。

 


SixTONES - うやむや (Music Video) [YouTube Ver.] (from Album “1ST”)

 

わたしは推すことしかできないけれど、推される人たちはどう思っているんだろう。興味あります。

 

 

 

 

 

 

感覚を言語化する練習

会話量なんて言葉はきっとない。

 

でも少しだけ気になっています。

私は1人っ子且つ小学校低学年から見栄とか羞恥心とか傲慢さとかで悩みとか、自分にとって都合の悪いことを親に話すことができなかった。それは大学時代まで続いていた。そんなもんだから会話量が人より少ない気がしているということです。

そう考えると、いろいろ芋づる式に自分の弱いところが腑に落ちたんです。

私は今まで外部刺激によって得た自分の感覚、感情の変化を言語化して誰かに伝えるという経験が少なかった。だから自分が不快な感覚を覚えていても、その感覚を文字化することがどうも鈍くて、親に「なんでそんなに怒られても感情がないの!!!」と逆ギレされ怒鳴られたところで、ただ不快という感覚を感じることしかできなかった。

 

だからいつも生きていても自分の気持ちがわからなかった。非言語的な感覚でしか。

 

それでも転機は訪れることになりまして。それは自分の感覚をノートに書き出してみるというもの。この行為はわたしにとってとても斬新だった。

このノートは自分以外は見ない、完全に言語が自分ひとりだけに与えられる空間だったから。今まで言葉は誰かしらに向けるものであったから、自分だけの空間ではなかった。それが自分専用に独占することができた。だからどんなに汚い言葉、感情がでてきても誰にも咎められない。

 

書き出してみると、とまらない。別に自分はそこまで考えていなかった純粋な気持ちから成る文字がするすると出てきた。不思議だった。

初めて自分の気持ちに対峙したときに、知らない私がいると思った。でもその気持ちは紛れもなく感覚で感じていた私だった。

 

さっきふと気づいたけど、小学校の頃むやみやたらに聞かれたり書かされたりした「将来の夢」に1つとして本心は無かったと思う。

 

 

性にまつわることを可愛く昇華☆ってさいこうです

この前古本でアラサーちゃんを買ったんですけれども。

それがとても私は好きだと思った、という話をしようと思います。

 

アラサーちゃん自体のことはきっとうすうす知っていたけれども、出版された当時のわたしはまだ思春期真っ盛りの高校生だったもんですから、表紙にとてもポップに無修正!☆と書かれていて、まだ当時は処理能力がなかったようで、「まだ開いてはいけない気がする、、、!」と察し、スルーしていました。

 

しかし時は経ち、いろいろな経験をそれなりにした私はもう無修正という言葉に何も動じずになっていました。むしろありがたいです、無修正。

そして読みだしたら1巻そのまま読み切りました。なんだか爽快感がとても大きかった。ここまでイカつい下ネタをあんなに可愛いイラストにしてくれたことが、私の持っている下についての感覚も可愛く昇華されたような気持ちになりました。

 

元々性に対する興味の目覚めは小学校低学年で、そこからはまあ子どもなりに収集していくんですけど、あまりその話題は表に出すべきではないということに気付いてからは話さなくなって、でもわたしは好きだし、、と言う感じでどんどんそこらへんの知識も得ていきました。

自分が男子だったらもっと感覚共有とかできていたのかなぁとか思ったり。

 

だからアラサーちゃんを読んだときは「それ今まで言いづらかったけどめちゃくちゃわかる~~~~!!!!」が無限でした。

 

でもこんなに人に言いづらいことなのにそれをしないと可愛い赤ちゃんは生まれてこないのってほんとに人間おもしろいよなってなる。

 

アイドルという概念

アイドルという概念が最近何かと揺らいでいるわたしです。

 

去年の暮からSixTONESというジャニーズの方々に惹かれておりまして、今日は生配信のライブを観ていました。

 

ジャニーズ自体は今から10年ほど前に嵐に数年ハマっていたのでジャニーズ初心者ではなかったのですが、最近推しているSixTONESがきっかけで再びジャニーズ、アイドルの界隈におじゃましています。

 

中学生の時のわたしと今とでアイドルに対しての感覚は全然違っているものになっていて、何が違うかというとひたすらに尊敬するという。

まず、生きていて誰しもが心を持っていて、楽しい嬉しいときもあればそうでない、とんでもなく落ち込むときもある。だけれどそれを持ち、しかも各個性を大切にしながらファンの方々に幸せを届けていて。10年前のわたしもそれは理解はしていたけど、彼らと同世代になったからなのかそこの面が本当に尊敬してしまう。

 

今日のライブを観ていても、シンプルに「アイドルすご、、、」と何回も思いました。

だめだな~、語彙力文章力共になくて全然うまいこと言葉にできないなあぁ。

 

ひとまずライブ観れて、お金を出してよかったなぁと思いました。