1人の生から死、そして葬式

昨日一昨日は祖父の葬式だった。

 

自分にとって今まであまり葬式とはご縁が無く、今回はじめて正式にお葬式に向き合う時間を過ごした。祖父は1か月前に余命宣告を受けたとおり、1か月後に亡くなった。

 

私はこの1か月、1人の人間が生から死へと変化を遂げていく様子を見ていた。

 

気力がなくなって食べなくなり、トイレに行くのも難しくなり、寝たきりになり、目も明けない状態になった姿、死ぬ間際の苦しそうな姿、逝って数時間後の息がなく体温がない姿、白い布を顔にかけられている姿、葬式会場の布団に寝かせられているところから化粧で顔色を整えられた姿、棺に入れられた姿、式会場内で遺影と花の下に置かれた棺、会場から霊柩車に移動する姿、火葬場の棺を燃やす箱みたいなところに入れられ、頑丈そうな扉が閉まる音、見えなくなる棺、その直後にごうごうと燃える音、90分後にはサックサクで箸でつついたらクッキーみたいに割れる骨、溶けた銀歯の銀、歯、骨壺に入れられていく骨

 

こうして祖父は物体としてこの世界からいなくなった。まあ少しの骨はあるけど。

 

人が死を恐れるのはやはり「分からない、得体のしれない」という感覚からくるのかもしれないなと思った。

今回、自分なりに分かって、それなりに得体を知った身からすると、もうそこまで怖さみたいなものは感じなかった。

 

葬式を通して死の現実味を体験した、そしてお経や焼香をすることは勿論亡くなった故人に向けての意味もあるだろうけど、残された側の死に向き合い受け入れる儀式という考えが私の中では生まれた。

そしてもう1つ強く感じたのが花という存在についてである。

式場に入ったときに目にしたのは遺影と遺体入りの棺、そして目を背けたくなるくらい鮮やかな色の花々だった。

 

花は私からみたら圧倒的な「生」でそこに対峙する祖父の「死」。

 

そして火葬場に向かう前最後の棺にふたをする前、祖父の周りに花を敷き詰めるという工程があった。

「人生の送り出しの最後は花」

花は美しく、より死を浄化する作用があるように思えた。

人が死ぬときに最後、火葬場の棺の中で共にするのは思い出の品、写真と共に花であった。

 

葬式やる前に、葬式をやる意味なんてそんな宗教色強くないのにうちなんてあるのか?なんて猜疑心が芽生えたことのわたしをどうか許してほしい。

 

葬式 is めっちゃ必要。