推すこと
今日は今日読んだ本
「推し、燃ゆ」
のことを交えながらかいていきたいと思います。
最近よく考えていた「推し」という存在。
なぜ「推す」ではなくて「推し」なのか。もう名詞化しているだけ?
私はこの本を読んでいて、本を読んでいる気がしなかった。現実味があり過ぎて、主人公の行動の動機とかも情けないくらい理解できるものでした。
「推しが生きがいなんです!!」
この前見ていたTVのインタビューで答えていた女の子の声。
わかる。
「推しがいるから頑張れます!!」
めちゃくちゃわかる。
でも推しって自分ではない。
生きる事を自分以外の人間に意味づけることはその推しがいない世界は自分もいなくなるのだろうか?
現実はつらすぎるから他人のキラキラしたものを吸収して自分に還元?
去年の暮、嵐は活動休止をした。
それはかつて当たり前だと思っていた存在の消失だった。
でも自分は今生きているし、明日も呼吸をする。
推しって作りたくて作るものではなくて、気づいたときにはいるものなのかなと思う。
無意識のうちに何かが惹かれる「推し」という存在の中に正体に自分が求めていたり、憧れたりする何かがあるのかもしれない。
SixTONES - うやむや (Music Video) [YouTube Ver.] (from Album “1ST”)
わたしは推すことしかできないけれど、推される人たちはどう思っているんだろう。興味あります。