寝たまま

 寝たきり、というよりかは寝たままである。

 

寝たまま、自分を諦められないでいる

今月末から就労移行支援のところへ通うことになったが、今もこれが合っている選択なのか疑問に思っているところではある。

 

でも行動しなければ道は開かれないのだ。

寝たまま、蝉の声を聴きながら、悶々としている2021年8月である。

本読み

 

バカ論(新潮新書)

バカ論(新潮新書)

 

 バカ論を読んだ。ビートたけし著。手に取ったきっかけは古本屋でたまたま見かけたから。

 

印象的だったのは

『本来ならば、生まれて飯を食って、仕事してくたばれば、それで充分なのに~(略)~行き過ぎちゃうと本質が失われて、余計なものだらけになる』

 

という文章。

たしかに!そういわれてみればそうだよな~と思った。

わたしはもう生まれた時から物質的には恵まれていてそりゃ各家庭の経済状況で異なりはするんだろうけど、情報含めいろいろと飽和しているなかで生活してきたんだろうなと気づいた。

 

今でこそブラック企業とか働き方改革だとかで働く側の精神的な質を高めようとする見方(実行しているかの実態はしらないけど)があるけど、それはある程度人間の質を高めることが可能になるくらい、昨今のAIだとかの効率化の技術が進んだことによって与えられた結果であって、これが何もかも足りない、欧米に追い付け追い越せの時代だったならばそんな働き方を考えるまでもなかったんだろうなぁ。

 

ネットサービスが進み、前までは付加価値によるものでしかなかったハイブランドも可視化が進んで「共感」がブランドとしての新しい基準になるとかならないとか。

もっと選択できる今だからこそ選択する理由を自分のなかで明確にしていたい。

そうでないと、自分である理由を自ら減らしているように思えるから。

1人の生から死、そして葬式

昨日一昨日は祖父の葬式だった。

 

自分にとって今まであまり葬式とはご縁が無く、今回はじめて正式にお葬式に向き合う時間を過ごした。祖父は1か月前に余命宣告を受けたとおり、1か月後に亡くなった。

 

私はこの1か月、1人の人間が生から死へと変化を遂げていく様子を見ていた。

 

気力がなくなって食べなくなり、トイレに行くのも難しくなり、寝たきりになり、目も明けない状態になった姿、死ぬ間際の苦しそうな姿、逝って数時間後の息がなく体温がない姿、白い布を顔にかけられている姿、葬式会場の布団に寝かせられているところから化粧で顔色を整えられた姿、棺に入れられた姿、式会場内で遺影と花の下に置かれた棺、会場から霊柩車に移動する姿、火葬場の棺を燃やす箱みたいなところに入れられ、頑丈そうな扉が閉まる音、見えなくなる棺、その直後にごうごうと燃える音、90分後にはサックサクで箸でつついたらクッキーみたいに割れる骨、溶けた銀歯の銀、歯、骨壺に入れられていく骨

 

こうして祖父は物体としてこの世界からいなくなった。まあ少しの骨はあるけど。

 

人が死を恐れるのはやはり「分からない、得体のしれない」という感覚からくるのかもしれないなと思った。

今回、自分なりに分かって、それなりに得体を知った身からすると、もうそこまで怖さみたいなものは感じなかった。

 

葬式を通して死の現実味を体験した、そしてお経や焼香をすることは勿論亡くなった故人に向けての意味もあるだろうけど、残された側の死に向き合い受け入れる儀式という考えが私の中では生まれた。

そしてもう1つ強く感じたのが花という存在についてである。

式場に入ったときに目にしたのは遺影と遺体入りの棺、そして目を背けたくなるくらい鮮やかな色の花々だった。

 

花は私からみたら圧倒的な「生」でそこに対峙する祖父の「死」。

 

そして火葬場に向かう前最後の棺にふたをする前、祖父の周りに花を敷き詰めるという工程があった。

「人生の送り出しの最後は花」

花は美しく、より死を浄化する作用があるように思えた。

人が死ぬときに最後、火葬場の棺の中で共にするのは思い出の品、写真と共に花であった。

 

葬式やる前に、葬式をやる意味なんてそんな宗教色強くないのにうちなんてあるのか?なんて猜疑心が芽生えたことのわたしをどうか許してほしい。

 

葬式 is めっちゃ必要。

「生きづらさ」という言葉はどこで覚えてきたのだろう。

 

自分なりの生きづらさを定義しようと思う。

 

「生きづらさ」

=自分の中にある何かしらの感覚をマイノリティと捉え、そこの部分が周りの環境と適応せずに自分自身の自然な感覚を貫くのが難しいと感じる部分

 

それにしてもその生きづらさなんて言葉は十年前よりも格段に目にする機会が増えた気がする。それはきっとSNSの影響が大きいのではないかと感じた。

 

SNSとは感情を共有するツールであるから、好きなことに対してはとてもポジティブな働き方をする。例えば「推しのここが好き!」という内容に共感を覚えればそれはいいね!と言う形で共感され、拡散されてそれが一部では共感覚になる。

 

一方で「仕事や人間関係で悩んでいる」などというネガティブな意見も同じく共感覚として成り立つこともある。

今までは共感覚だと思っていなかった感覚が実は多くの人が抱くネガティブの要素だったと1人1人の人間の声量がメガなスピーカーになることで初めて気付いたことだってあるだろう。

 

「生きづらい」と思っていなかった人たちがこれが生きづらさです!と提示されれば、「そうかこれは生きづらいという感情だったんだ」と気づく、発言、拡散、共感

 

みんなが社会の周縁にいる感覚なのだろうか?

 

 

事象は球体

今日はほんっとうに何にもせずに1日が終わっていくな。というか終わらせにいきたい感覚さえある。

 

私は今まで「思い込み癖」なるものがずっと取れなくて、というか取ることができるという概念がなくて。1つの事象に対して1つの側面でものを見る事しか「見る」方法がないと思っていた。だけど最近なんとなくそれは違うんじゃないか、もっと球体とかをあらゆる方向から違う色でみるように多面的なんじゃないかって思い始めている。

その思い込むことは、私にとっての大半はネガティブな捉え方をすることだった。

ネガティヴな捉え方をしたところでその沼にハマって、さも世界がネガティヴな面のみで形成されているような感覚になる。なるというかその世界は本当に私にとってネガティヴな世界として成り立っている。

 

だから一回全てネガティヴな捉え方をしたことを無理矢理前向きな見方をしてみようと思った。「今私が見ている世界は虚構かもしれない」という意識をもって。

 

今までの私はその世界を本当に信じていたのだけれど、それだと破壊にしか気持ちが向かないのはどうも人間的でないような気がして。

 

そうしたら思いのほか簡単に世界は一転して穏やかな、温かい世界に変わった。

私の捉え方で、解釈の変化で見え方が変わった。本当に自分しか変わることはできないんだと思い知らされたけど、それでよかった。

 


アトラクトライト (Attract Light) / *Luna feat.ゆある 【2021.1.28小説発売!!】

 

話は急激に変わりますが、このアトラクトライトという曲がの歌詞がすごく今の私に響いているのでそちらを抜粋して今日は終わりにしたいと思います。

曲自体はyoutubeで偶然みつけました。

 

知りたかったんだ 成功と失敗 マルとバツ
境界線を引くとしたらどこだろう

 

それじゃあバツがマルになって 失敗を乗り越えたとしたら
それをなんと呼ぶんだい いつか名前をつけよう

 

「嫌われる勇気」を読んだ話。

「嫌われる勇気」を読んだ話。

 

 

嫌われる勇気

嫌われる勇気

 

 

何年か前に大きな話題になっていたことは知っていた。本屋さんでは堂々といろんな本よりも目立ったところに配置されていた、青い表紙の本というくらいまでには何となくイメージがついていた本だった。

 

だから何となく手を取りたくなかった。

「今これが流行っているから!」と言われるものに訳もなく拒否感を覚える私には手を取る理由が無かった。

 

それでもこの度手に取ることになった。きっかけは友人のおすすめだ。

ともすれば少しも躊躇することなく本を手に取りレジに向かう私がいた。

信頼する友人のひとことさえあれば私は本を買うことができた。

 

内容は、ほとんど私だった。

劣等感、コンプレックス、どうしようもない承認欲求を抱える青年と哲学者の対話形式の本だった。

 

共感というよりかは、私だった。

気付いたら、自分の中で強く引き付けられた言葉へのマーカーとそのページに貼った付箋は無数だった。

その本を手に取るまで自分がずっと抱えていた苦しみが少しずつ綻んでいくのが分かった。自分自身の感情、すなわち苦しいと思っていたものは実質何も変化はないけれど、自分の物の考え方で胸のつっかえが引いていくという体験をした。

 

きっと何年か前の私だったらあまり響かないんだろうなぁ、私は私なりの地獄を経験したからこそ響いた1冊なんだろうなぁと思った。

 

毒素がグスグスと抜けていくような音がした。

 

 

何かに救われたいという思いはいつから持つようになったのだろう。

 

何かに救われたいという思いはいつから持つようになったのだろう。

「何かに救われたから生きていける」と思うようになったのはいつからだろう。

 

音楽などを聴いて、「私のことを歌ってくれている、救われる」

なんて思うようになったのはいつからだろう。

少なくとも、救われるに値するくらい今の自分に納得がいっていない時からだろう。

 

多様性を認めないと生きていけない。

私はその多様である人々は当然だと思うから、何も否定はしないけど、多様性を認めてくれるのなら多様性を認めない人も認める手もあるのではないでしょうか。

 

スマホで人を殺すことを指す「指殺人」もあるけど

私は何回自分を殺して生きてきたのだろう。

絶望している私を認めてはいけない。人はみな夢と希望を持って生きなさい。

そんなことができたらこんなに絶望することも少なかったのかな。

 

文面の私は死にそうですか?

実際のところ私はさらさら死ぬ気なんてなくて、さっき自分の中でとどめきれなかった苦しさを少し吐き出したから声はかすれているけれど。

実際生きる方にしか向いていないのに、それはいつだかの死に向かっている。

 

「思い込みが強い性格ですね」

「1つのことを続けられない性格ですね」

「言っていることが常にブレていますね」

 

私も嫌だよ。

私だって思い込みが少なくて

忍耐力があって1つのことをずっと飽きずに続けられて

言っていることに軸がある人間になれたらって思って

 

自分を認められたらって。

でも生きてくのはオシャレじゃないって。

 

毎日全力で頑張れて目的があっておしゃれが常にあって清潔でたくさんの人と話せていつもポジティブなんとかなるよ大丈夫大丈夫って。

 

いや、やっぱアンミカさん強いわ。